皇太子アーサー・チューダー
           Arthur Tudor Prince of Wales
            

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        アーサー・チューダー/作者不詳/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵

     
  1486年9月20日 ウィンチェスターの聖スウィザン修道院で誕生
      1489年3月12日 スペイン王女キャサリン・オブ・アラゴンと婚約成立
      1501年1月14日 キャサリンと結婚
      1502年4月2日  ウェールズのルドルー城で死去 享年16歳

アーサーはチューダー王朝開祖ヘンリー7世と、王妃エリザベスの間の第一子として生まれた。
もともと敵対していたランカスター系のチューダー家の王と、ヨーク家の王女エリザベスの
結婚は薔薇戦争の終結を意味するものとして歓迎されたが、後継者が生まれたことで、平和は
より堅固なものとなった。

アーサーが生まれたウィンチェスターという町は、「アーサー王と円卓の騎士」の円卓があった
とされる町である。長男がアーサー王ゆかりの町で生まれたというので、「アーサー」と名付けたという。
一説によれば、「生まれてくる後継者を神格化するために」ヘンリー7世が、わざわざ産所をウィンチェスターに選んだ、ともいう。

アーサーはわずか3歳で、一歳年長のスペイン王女キャサリンと婚約する。
国を統一したスペイン女王イザベラが「おチビちゃん(ミ・ベケーニャ)」と読んで鍾愛した末娘である。
スペイン王国もまた、アラゴンとカスティーリアという、2つの国が合併してできたばかりの新興国家だった。

しかし、両国の利害は最初から対立した。ヘンリー7世は、スペインに対して、予想の四倍もの持参金15万
クラウンをふっかけ、スペイン側は英国にフランスへの出兵を要請した。
しかし両者の欲は外交努力によって曖昧なまま、婚約が先行された。
1499年と1500年、二度に渡ってアーサー王子はキャサリンを妻にする、といって代理人を通しての仮結婚を行った。

1501年10月2日、キャサリン王女がプリマス港に上陸した。
花嫁行列は長引き、一ヶ月経ってもロンドンにつかなかった。痺れをきらしたヘンリー7世とアーサー王子は、ロンドンから40キロほど離れたドグマースフィールドまでお忍びで出かけていって、未来の花嫁と体面した。

同年11月12日、ようやくキャサリン、ロンドンに到着。
花嫁側の華麗なパレードは、ロンドン側の壮麗なページェントで出迎えられた。
2日後、アーサーとキャサリンは聖ポール大聖堂で挙式をあげた。

12月2日、アーサーは皇太子として、ウェールズのルドルー城へ向かった。
新妻キャサリンも同行した。まだ一度も肉体関係のない、形ばかりの夫婦だった。
翌年の3月、アーサーは急な発熱に取り憑かれる。もともと病弱だったアーサーは、生死の境を彷徨った。
キャサリンも必死で看病に明け暮れたが、疲労と感染のために、倒れた。
1502年4月2日、アーサーは高熱のために息を引き取った。
悲しみの中、キャサリンだけは回復し、ロンドンに帰還した。
アーサーとキャサリンが性的関係のない夫婦だったことは、その後、スペイン側が「形式的な結婚だった」として、残りの持参金の支払いを渋ったことからも推測できる。

アーサーの死後は、実弟にあたるヘンリーが「ヘンリー8世」として父の跡を継ぎ、キャサリンは
ヘンリーに見初められ、王妃に迎えられる。しかしヘンリーが心変わりした時、キャサリンは「兄の妻
だったから聖書の教えに反する」として、強制的に離婚されてしまう。
未来の妻キャサリンが故国にいた頃、ラテン語で送った手紙に見られる優しさ、線の細い顔立ち・・・
もし実弟のヘンリーではなく、アーサーが天寿を全うしていたら、王位についていたら、英国の歴史は
どうなっていただろうか。


               
 
  

       参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
薔薇の冠 石井美樹子 朝日新聞社
イサベル女王の栄光と悲劇 小西章子 鎌倉書房