ヘンリー8世/ハンス・ホルバイン/ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
             ヘンリー8世年表
ヘンリー8世。その名が英国では「率直王」というあだ名で呼ばれる事に
違和感を感じる人は少なくなかろう。

ヘンリーはチューダー王朝開祖/ヘンリー7世と、前王朝ヨーク家の王女エリザベス
との間に生まれた。1491年6月24日、今は存在していないグリニッジ宮殿で誕生
した時には、すでに兄のアーサー、姉のマーガレットという2人の兄姉がいた。
5歳年長の兄アーサーは1489年に皇太子及びコーンウォール公に冊立されて
おり、同年にはスペイン王女との婚約も整い、誰の目にも未来の国王はアーサーと
しか映らなかった。

ところがアーサーはヘンリーが11歳の時に急死したため、急遽ヨーク公であった
彼が皇太子に立てられた。
彼は教育係から叱られる時も、側近の者が代わりに鞭で打たれたという、甘やかされて
育った子供であった。
音楽を好み、10歳でフルート、ビオラ、ハープを演奏できたという。
12歳で、スペインからの要請で亡兄アーサーの名ばかりの妃であったキャサリン・
オブ・アラゴン
と婚約した。キャサリンがアーサーとまったく肉体関係がなかった事は
女官長他側近達も証言する事実であった。
しかし父ヘンリー7世はスペインとの約束を踏み倒すつもりで、2人の結婚を認めなかった。
そこでヘンリーは、1509年父王が崩御し、自身が即位するのに伴い、婚約者キャサリンを
正式な王妃に迎えたのであった。

キャサリンの故国スペインは、最初英国の同盟国であったが、1519年に神聖ローマ
帝国皇帝カール5世が即位すると、スペインはオーストリアの一部となった。
カールは1527年サッコ・デ・ローマ(ローマ掠奪)で、法王すら支配する勢いであった。
危機感を覚えた英国は敵国だったフランスに急接近し、スペインと対立した結果、王妃
キャサリンの立場は弱まった。
おりしもヘンリー8世は、フランスから帰国した駐在フランス大使の娘アン・ブーリン
に魅了され、王子が生まれなかったキャサリンとの結婚を解消すべく法王に働きかけた。

熱心なカトリック信者であったヘンリーだが、思い通りに離婚許可を出さない法王に
腹を立て、バチカンと断絶。1534年、強引にアンと式を挙げる。
「国王至上法」を発令して、内容的にはほぼカトリックと変わらない、しかし
法王の代わりを王が務めるという初期の「英国国教会」を成立させた。

1536年、アン・ブーリンを反逆罪で処刑したヘンリーは、3番目の王妃にジェーン・
シーモア
を娶り、後のエドワード6世が生まれた。同年から国内の法王領である修道院
の財産没収に着手した。わずか4年で大小合わせて400近い修道院が解散となった。
政情不安から、36年には「恩寵の巡礼」なる大反乱が勃発している。

37年、ジェーン王妃が産褥が亡くなったために、2年後ドイツの新教国クレーフェから
公女アンナ(アン)を迎えるものの即離婚し、1540年には20歳にも満たないハワード
家のキャサリン
と結婚。2年後には反逆罪で処刑してしまう。
その翌年最後に迎えた王妃キャサリン・パーだけは、ヘンリーの死後まで生き延びた。

1547年、ヘンリー8世は持病であったリューマチ或いは梅毒が悪化し、第3王妃
ジェーンの兄サマーセット公を摂政に任命して、10歳の皇太子の後見を任せると
ホワイトホール宮で息を引き取った。1547年1月28日のことだった。
              
       参考資料/
The Tudor place  Jorge H. Castelli
Tudor World Leyla . J. Raymond
Tuder History Lara E. Eakins
The Tudors  Petra Verhelst
Encyclopedia by HighBeam
新版イギリス史 大野真弓 山川出版社
概説イギリス史 青山吉信編 有斐閣選書