チューダー王家の起源
チューダー/ウエールズ家の家系
未だケルトの血の濃いウェールズ・・・・この地には他民族
に支配される前の古きブリトンの言葉と風習が残っている。
チューダー家の起源は、13世紀北ウェールズのデーンビー周辺
であった。その地を支配した、ウェールズの王家に仕えていた
一族なのである。しかし彼らには家名がなく、もっぱら代々
「〜の息子(apアプ)」と名乗った。
一族の祖/エドネフィット・フィッチャンは、1215〜1240年
にかけてルェリン家の秘書長官として、英国王ヘンリー3世との
交渉役も務めた。
ゴロンウィ・アブ・エドネフィット
(ウェールズ語で「エドネフィットの息子ゴロンウィ)
とチューダー・アブ・エドネフィットの兄弟もまた、父と同じ
く王家に仕え、その功績を認められて北ウェールズ有数の裕福
な一門となった。
すでにその頃にはウェールズ王家はヘンリー3世に忠誠を誓い、
ウェールズの独立性は薄らいでいた。
そして1272年、英国は本格的にウェールズに侵攻を開始した。
1282年、「The Last」と呼ばれる最後の王ルェリンが処刑
されると、エドネフィット・フィッチャンの一族は英国王室に服従するようになった。
が、一族のうち、何人かはルェリン王家再興のために反乱を起こした。
度重なる反乱に手を焼いたエドワード1世は、跡継ぎであるエドワード王子を
「プリンス・オブ・ウェールズ」と宣言した(ここから英国皇太子をプリンス・オブ・
ウェールズと呼ぶようになった)チューダー・アブ・ゴロンウィは、この王子(後
のエドワード2世)に忠誠を誓ったため、一族の中から反乱が起きたにもかかわらず、
その広大な領地は息子のゴロンウィ・アプ・チューダーに引き継がれた。
いつしかこの一族には、チューダーという名が珍しくなくなった。
ゴロンウィ・アプ・チューダーにもまた、チューダーという息子がいた。
そしてゴロンウィ、エドニフィット、リース、グェリン、マルドットの5子が生まれた。
かれらはリチャード2世に忠誠を誓っていた。しかしリチャード2世は、ヘンリー
4世の手で暗殺されてしまうと、5兄弟は1400年、新王に対して反旗を翻す。
1406年、反乱は英国軍によって鎮圧され、一族はお取りつぶしとなった。
散り散りになって敗死/又は刑死した兄弟達の中で、ただ一人生き残ったマルドット
は、1413年恩赦されたという。そしておそらく英国人と思われる女性マーガレットと
結婚した。二人の間に生まれたのが、オーウェンだった。
オーウェンはヘンリー4世の子ヘンリー5世の宮中に仕えていた。
しかし王は100年戦争の最中、1422年35歳の若さで崩御した。
残されたのは、20を過ぎたばかりの輝くように美しい王妃キャサリン・オブ・ヴァロワ
と、生後6ヶ月の皇太子(後のヘンリー6世)だった。
キャサリンはいつの頃からかオーウェンと関係を持ち、4人もの子を産んでしまう。
他に兄弟のいなかったヘンリー6世は、母を恥ずかしく思いながらも、異父兄弟たちを
可愛がった。爵位を与えてやろうとしてハタと困った。
かれらの実父オーウェンには、家名がないのである。そこでオーウェンの祖父の名に
ちなんで「チューダー」と命名した。このオーウェンの孫こそ、チューダー王朝開祖の、ヘンリー7世である。
参考資料
Origins of the Tudor Family in Wales by Tudor History by Lara E. Eakins