英国2つの革命1.
王権神授説
チューダー王朝の縁戚として、英国を支配することになったはずのスコット
ランド王ジェームス6世でしたが、国民にとって「王室が断絶した」という
感覚は拭い切れ
ませんでした。45年に及ぶエリザベスの治世下で独立富農民層(ヨーマン)
や商人層が発展し、議会での発言権は強まっていました。
しかし、エリザベスの巧みな政治手腕により、かれらの不満は表面化する
こともなく東インド会社、北米開拓など外部の富へと目が向けられていました。
エリザベスの時代は、王の利益と議会の思惑とが一致していたのです。
ところが後を継いだジェームス1世は、エリザベスのような高度なバランス
感覚を持ち合わせていませんでした。
彼は国家の富を、国王が独占する方向へと転換させようとします。
その根拠となった思想が、「王権神授説」でした。
ジェームスは自ら執筆した論文『自由な君主国の真の法律』の中において、
「王は議会の助言なしに日々の法律や勅令を制定できる」と主張しています。
また、ジェームスは自らこの王権神授説について議会で演説しました。
(注1)
つまりこの国では、王は黙っていても王ではなかったのです。
国民や議会が支持して、初めて王位が安泰となり、同時に王国として機能した
のです。
その点が「朕は国家なり」とうそぶいて平然としていられたブルボン王朝とは
異なっていました。同時に王権が議会とバランスを保っていたからこそ、ブル
ボン王朝のごとく、破壊的なまでに国民と乖離してしまう危険性もありません
でした。
結果的にはそれが英国王室の永続性につながりました。
しかし、短期的にみれば、欧州各国の王が権力を強めていく中、ジェームス
一人が指をくわえて見ている形となったのでした。
ジェームスはまず独断で外交政策を打ち出します。しかしたちまち議会から
反発の声が上がります。議会は「外交政策の審議は英国民の古来から産まれ
もっての権利である」と抗議文を提出します。怒ったジェームスは抗議文を
破り捨て、議会を解散させてしまいました。
議会がジェームスの外交政策に慎重だったのは、権利意識のみならず歴史的
背景もありました。エリザベスが王位につく直前に女王であったメアリー1世は、
独断で親スペイン政策をとり、フランスと開戦したがために、欧州最後の
拠点であったカレーを失うという失策を犯していたのです。
メアリーはスペイン王女キャサリンを母に持ち、心情的にもスペインに近い、
半ば外国人のような女王でした。ましてや完全に外人であるジェームスに
警戒心を持ったとしても、無理からぬことでした。
狂信的な新教徒でもあったジェームスは、国内の新教徒の言うがままに、
カトリックへの迫害を定めた反カトリック法を維持したまま、ピューリタンにも
接近しようと試みます。海外では30年戦争渦中にあったドイツの、新教徒側の
リーダー・ファルツ選帝候フリードリッヒに、援助とともに自分の娘エリザベス
を嫁がせます。 (注3)
そのため戦況は激化・・・ジェームスのやったことは皆裏目に出たのでした。
このファルツ候とエリザベスの子孫が、後にスチュアート朝断絶後、ハノーバー
王家として英国を継ぎました。
ジェームスは1625年崩御します。
後を継いだチャールス1世は、まるで父の仇とばかり、真っ向から議会と対立
したのでした。