ヘンリー8世時代の用語解説(1)
囲い込み(Enclosure) 15世紀に羊毛産業が盛んになった英国は、16世紀に入り、ニットの大輸出国と
なった。製品は主として生成の生地としてロンドンからアントウェルペンに
送られ、大陸で染色や加工を施された。1530〜1540年にかけて財政再建の目的
のために質の悪いポンド貨幣が鋳造されたためにポンドが安くなり、そのため一層
輸出量が増加した。このような背景において、羊毛産業に手をのばしたジェントリー
達は、より多くの放牧地を確保するために力づくで共有地を独占し、垣根で囲った。
そのため個人で土地を持てず、もっぱら共有地に頼らざるをえなかった貧農達が
生活の基盤を失った上に、乞食を禁じた労働法のために行き場を失い、ケットの反乱
のような社会不安を生んだ。地域的に見れば、領主勢力の弱い英国北部、西部及び
東南部において集中的に進行した。16世紀において、囲い込みされた面積は国土の
2・76パーセントであった。
マニファクチャー(Manufakture) 14世紀後半から15世紀にかけて、ニット工業の中心は都市部から農村へと移行した。
農民は耕作だけでなく、自宅において羊毛の加工、製糸、機織りなどに従事
することが多かった。特に早くに封建制の衰えた東南部地域では、集中的にマニファクチャーが発展した。これには二種類の人種が存在した。一つは生産者から
直接羊毛を買い入れ、低い賃金で雇った農民に加工させて布に仕上げ、羊毛仲買人
の手を通さずに直接売買することのできた階層と、羊毛仲買人から糸を仕入れ、自分で加工・布に仕上げて現金売買をし、それを元手にまた糸を買う階層である。
前者の富裕層は東南部、後者の貧しい層は北部に多かった。貧しい層は自ら労働
する独立生産者で、平均して一週間に一本の割合で羊毛反物を仕上げたが、家内労働を主とするものの、不足の場合は徒弟1名又は紡ぎ女数名を雇い入れた。
さらに事業を拡大するために、より多くの労働者を雇い入れ、賃金労働を主とする
マニファクチャーを発展させた。しかしニット工業では、織元業者が羊毛を貸し付
け、各家庭で加工させた後、現金で引き取る問屋制度も存在した。
1509 ヘンリー8世即位 法王ユリウス2世の勅許をえて、兄アーサー皇太子の妃だったキャサリン・
オブ・アラゴンを王妃に迎える
1511 王子誕生 ヘンリーと命名されるも、わずか7週間で逝去 1513 フロッドンの戦い The Battle of Flodden ヘンリー8世がフランスに遠征中、スコットランド王ジェームス4世が2万の
軍勢を率いて英国国境を侵犯するが、国王代理だったキャサリン・オブ・
アラゴン王妃が派遣した英国軍にフロッドンで大敗した。
この戦いで、ジェームス4世も戦死した。
1516 王女誕生 王妹メアリーにちなんで「メアリー」と命名。3歳で皇太女となる。
後のメアリー1世女王。
1520 金襴の陣 Field of the Cloth of Gold カール5世のオーストリア帝国の脅威に備えるため、それまで敵対していた
英国とフランスは和平条約を締結した。1520年、友好行事の一環として、
フランス・カレー郊外に内側に金襴を張った華麗なテント群を造営し、英国王
ヘンリー8世とフランス王フランソワ1世が、二週間に渡って饗宴を繰り広げた。
毎日のようにトーナメントが行われ、仮設の泉は赤ワインがわき出す仕掛けになっていたという。フランスと英国が接近したことにより、カール5世の
叔母にあたるキャサリン・オブ・アラゴン王妃の立場が弱くなった。
1521 ヘンリー8世、法王から「信仰の擁護者(fidei defensor)」なる名称を賜る ヘンリー8世は1521年、ルターを非難する声明を発表したために、時の法王
レオ10世より「信仰の擁護者(fidei defensor)」の名称を与えられた。
それは後に英国国教会が引き継ぎ、現在もポンド通貨上に頭文字「FD」
として刻まれている。
1520
年代ヘンリー8世、女官アン・ブーリンとの結婚を画策する 新興貴族ブーリン家では、長女メアリーがヘンリー8世の側室となっていた。
さらに王は次女のアンをも側室にしようと試みるが、アンは拒絶し、王子出生の可能性と引き替えに、王妃の座を要求した。1529 法王クレメンテ7世による離婚申請の却下 王は側近ウルジー枢機卿を介して時の法王クレメンテ7世に、キャサリン王妃
との結婚取り消しを要求したが、失敗した。そのためウルジー枢機卿は失脚
し、翌年捕らえられ、レスターからロンドンへ護送の途中病死した。
1529 「宗教改革議会(Reformation Parliament)」の招集 失脚したウルジーにかわり新大法官となったクロムウェルを主体として、法王庁からの独立運動が発展した。
1532 「諸収入税支払い禁止法(Restraint of Annates)」制定 ローマ法王に上納されていた各種税の支払い停止 1533 ローマ法王への上告禁止(Restraint of Appeals) ローマ法王に対して判断を仰ぐことの禁止。ローマ法王の普遍的な支配に対し、英国は昔から「独立した帝国」であることを強調した。
これによって国王の結婚・離婚は国内で処理することが可能になった。
上告禁止法を受けて、新カンタベリー主教クランマーは、キャサリンの王妃の座を否定し、国王との結婚無効を宣言した。
1533 法王クレメンテ7世、英国王ヘンリー8世とクランマーを破門
同年5月、アン・ブーリン王妃となる
同年9月、王女エリザベス誕生(後のエリザベス1世)
1534 「国王至上法(Act of Supremacy)」制定 国王を英国宗教界における唯一にして最高の首長と定めた法律→原典全文
![]()
![]()
参考資料
新版イギリス史 大野真弓 山川出版社
概説イギリス史 青山吉信編 有斐閣選書
女王エリザベス クリストファー・ヒバート 原書房
スコットランドの歴史 キレーン 彩流社
Hanover Historical Texts Project by Hanover College