エドワード6世時代の用語解説

1537年 エドワード6世誕生
10月12日、第3王妃ジェーン・シーモア、王子エドワードを産む
  24日、ジェーン・シーモア死去
1547年 ヘンリー8世崩御
1547年1月28日、ホワイトホール宮でヘンリー8世死去
その直前王の指名によりサマーセット公摂政となる。
エドワード6世即位
同年2月25日、エドワード6世、即位する
6ヶ条法(解説)の廃止
1549年 コーンウォールの反乱
6ヶ条法の復活を求めて、コーンウォールとデボンシャーで反乱が起きる
同年6月 ケットの乱→詳細

 

1545
〜1547
トリエント公会議
教会の内部改革のために、カトリック側で開催した宗教会議
当初はプロテスタント側との和解が目的のうちに含まれていたが
1520年法王レオ10世によるルター派批判勅書「エクススルゲ・ドミネ」
が基本にあったために、プロテスタント側は反発して出席を拒否。
結局改革よりも、プロテスタント批判に終始した。会議は断続的に1563年
まで4回にわたって開催された。

1549 礼拝統一法 First Act of Uniformity
「長い間英国とウエールズにおいて一般信者が教会のサービスと公に呼んだものは、リンカーンやヨークの教区で使用されていたものを指したが、
それら朝の礼拝祈祷、晩の礼拝など、いわゆるミサといわれた聖餐式に関わる様々な形式は式の実行者とともに数年のうちで終わり、最愛なる叔父
(サマーセット公)の助言と王の威厳とともに、カンタベリー大主教の支持のもとに、管理されるであろう。(礼拝統一法/序文)」
急進的なプロテスタントだった叔父の影響の下で成長したエドワード6世は
同じく急進的なプロテスタントであった。1449年出された「礼拝統一法」
によって、カトリックの中心的存在だったヨークやリンカーン教会ではなく、英国国教会の総本山カンタベリー大主教に中心的役割を任せ、英国及びウェールズの全教区をその管理下に置いた。
そして「'The Book of the Common Prayer and Administration of the Sacraments, and other Rites and Ceremonies of the Church, after the Use of the Church of England(一般信者と聖礼式の管理、及び英国国教会使用後の他の教会のセレモニーに関する著書)」なる指導書の内容に沿った
ミサを行うよう命じた。そしてこれに従わない者は、12人の陪審人の評決によって有罪になった場合、初犯は10ポンド、再犯は20ポンド、それ以降は
家屋財産を没収され、投獄された。
しかし英語の祈祷書を使用しながら、説教礼拝等は、ラテン語ヘブライ語の
使用を認めるなど、カトリック的要素も残っていた。
1552 英語祈祷書の改訂
同年 礼拝統一法の改定
1553 42ヶ条法制定 Statutes of 42Articles
聖礼典の中で、洗礼と聖餐の2つを残して他の儀式を簡略化。カトリックの
教義であるキリスト化体説を否定し、ルター派の教義の正当性を打ち出した。
しかし修道院の尊重や、主教による使徒伝承の強調など、カトリック的要素も
残ることから、中道的である。

1553年 エドワード6世崩御
同年7月6日、エドワード6世、持病の肺結核のために死亡。
重体の最中、ノーサンバーランド公に説得されて、カトリック信者の異母姉
メアリーの王位継承を否定し、従姉妹のジェーン・グレイを後継者に指名
する。

                
                
参考資料
イギリス教会史 小嶋潤 刀水書房

新版イギリス史 大野真弓 山川出版社
概説イギリス史 青山吉信編 有斐閣選書
女王エリザベス クリストファー・ヒバート 原書房
Tudor place by Jorge H. Castelli
Hanover Historical Texts Project by Hanover College